【世界遺産】30古代文明②~アジアの世界遺産

こんばんは、みや兄です!12月12日までは世界遺産検定1級合格に向けての勉強シリーズです。

公式テキストである「すべてがわかる世界遺産大事典(上)(下)」を中心に自分の苦手ポイントメモなどを加えていきたいと思います。

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今日は第30回目ということで「30古代文明② 」です

■30 古代文明②

◯アッシュル(カラット・シェルカット)

(文)イラク 2003年/2003年危機遺産

登録基準(Ⅲ)(Ⅳ)

場所

メソポタミア北部に存在したアッシュル。

バグダッドから北に約390km、ティグリス川中流域に位置。

現在の名がカラット・シェルカット。

歴史

紀元前30~前20世紀に築かれた。

アッシリアの最初の首都となった。

アッシュルの特徴

アッシリア神話の最高神であるアッシュル神を祀る宗教的拠点としても発展。

この都市の遺跡にはジッグラド(聖塔)や宮殿跡などが含まれるが、大部分は土に埋もれたまま。

遺跡からは楔型文字で書かれた史料も出土している。

近くのダム建設計画で浸水が危惧され、世界遺産登録と同時に危機遺産にも登録された。

現在は建設計画は中断しているものの予断を許さない状況が続いている。

アッシュルとアッシリアは言葉が似てるので紐付けやすい。ダム建設計画と危機遺産についてもおさえる。

Wikipedia→アッシュル・カラット・シェルカット

◯アル・アインの文化的遺跡群(ハフィート、ヒリ、ビダ・ビント・サウードとオアシス群)

(文)UAE 2011年

登録基準(Ⅲ)(Ⅳ)(Ⅴ)

場所

アラブ首長国連邦の遺産。

歴史

紀元前2500年頃の遺構。

新石器時代の狩猟採集から農業へと、現地の生活が定住化へと移行していった様子を知る上で価値のある遺跡群。

アル・アインの文化的遺跡群の特徴

円形の墓石や水汲み場、日干しレンガによって建てられた住宅や塔、宮殿、行政施設などが注目されている。

ヒリでは鉄器時代ののものとみられる砂漠の灌漑施設アフラージュの跡が発見されており、アラブ地域において最古の例の一つ。

■灌漑施設は砂漠では重要なのでアフラージュは覚える。狩猟から農業へと定住化への移行も。

Wikipedia→アル・アインの文化的遺跡群(ハフィート、ヒリ、ビダ・ビント・サウードとオアシス群)

◯バット、アル・フトゥム、アル・アインの考古遺跡

(文)オマーン 1988年

登録基準(Ⅲ)(Ⅳ)

場所

オマーン北部のアフダル山地に点在する遺跡。

歴史

青銅器時代にマガン国が造営したとされる集落跡。

マガン国は紀元前2500年頃からアフダル山地で銅の採掘を行い、メソポタミアに供給することで富を得ていたとされる。

バット、アル・フトゥム、アル・アインの考古遺跡の特徴

遺跡の多くはほとんど加工のされていない扁平な石を積み上げたもの。

バットやアル・アインでは蜂の巣状の多くの墳墓が発掘されているほか、バットでは上部にしか入口のない巨大な塔が5基発掘されている。

■アル・アインはUAEの遺産が出たのでオマーンのも覚える。マガン国、アフダル山地、銅の採掘はポイント。

Wikipedia→バット、アル・フトゥム、アル・アインの考古遺跡

◯モヘンジョ・ダーロの遺跡群

(文)パキスタン 1980年

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)

場所

インダス川下流にある。

歴史

紀元前2300~前2000年頃に最盛期を迎えた。

モヘンジョ・ダーロの遺跡群の特徴

ハラッパーと並ぶインダス文明を代表する遺跡で、インダス文明最古かつ最大の都市遺跡。

都市計画に基づく碁盤目状の街路があり、建築物は焼成レンガが多用。

整備された下水道網が建物の間に張り巡らされた。

壮大な王宮や神殿がないことから強大な権力者が存在しなかったと考えられている。

現在は付着していた塩分が空気と雨の作用で結晶化し、レンガの崩壊などの危機に直面している。

■インドじゃなくてパキスタンにある。整備された下水道網権力者はいなかった、ハラッパーと一緒に覚えるのがいい。世界遺産の中では有名どころ。

Wikipedia→モヘンジョ・ダーロの遺跡群

◯隊商都市ペトラ

(文)ヨルダン 1985年

登録基準(Ⅰ)(Ⅲ)(Ⅳ)

場所

ヨルダン南部のペトラ

歴史

前2世紀頃にナバテア(ナバタイ)人によって建設された隊商都市。

ペトラはナバテア王国の首都として砂漠の交易路を支配することで大いに繁栄した。

2世紀初頭 ローマ帝国に併合され徐々に衰退。

4~5世紀頃 キリスト教の教会が造られる。

7世紀頃 イスラム教徒の支配に入る。

12世紀 十字軍の城塞が築かれたのを最後に廃墟となって砂に埋もれることとなった。

19世紀初頭 ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトにより再発見され、以来発掘調査が続けられているが全容は明らかになっていない。

2003年にアル・カズネ内部から埋葬の跡が発見されたことから墳墓として使われたと推測されている。

2019年 日本のODAによってペトラ博物館が完成、遺跡からの発掘物の保存・修復が行われている。

隊商都市ペトラの特徴

「ペトラ」はギリシャ語で「岩」を意味する。

ペトラの都市遺跡は岩山に刻まれた壮大な建物や用水路などで構成されている。

ペトラで有名な遺跡はアル・カズネ

周辺に住むベドウィンからは「カズネ・ファルウン(ファラオの宝物庫)」とも呼ばれている。

ペトラの遺跡の多くは多くは岩壁を彫刻のように彫り抜いて造られている。

ナバテア人は岩壁に設計図を書き彫り進め遺跡を築き、優れた建築技術で多くの貯水施設や用水路を建設しており、砂漠地帯でありながら飲料水を確保していたと考えられている。

ナバテア王国の歴史と、遺跡アル・カズネについてはおさえたい。ペトラはヨルダン、ペトラはギリシャ語で岩。

Wikipedia→隊商都市ペトラ

◯隊商都市ボスラ

(文)シリア 1980年/2013年危機遺産/2017年範囲変更

登録基準(Ⅰ)(Ⅲ)(Ⅵ)

場所

シリア南部のボスラ

歴史

2世紀初頭 ローマ帝国アラビア属州の州都となる。

ローマ時代には穀倉地帯として繁栄、地中海とアラビア海を結ぶ交易の拠点としても栄えた。

隊商都市ボスラの特徴

ローマ時代の遺跡が数多く残る古都。

ローマ帝国、ビザンツ帝国、イスラム時代の遺構が多く残る。

遺跡の上に現在の街があるので発掘されているのは一部分。

倉庫として使用されていた長さ約100mの地下道や、ローマ劇場の遺構などが往時をしのばせる。

ボスラの建築物は黒い玄武岩が使われているため全体的に黒っぽくみえるのが特徴。

■絶対にボスラとペトラ混ざる!シリアがボスラでヨルダンがペトラ!黒いのがボスラ!危機遺産なのがボスラ!関係ないけどボスラシャムって馬が昔いたなぁ、牝馬だけど強かった。

Wikipedia→隊商都市ボスラ

◯アル・ヒジルの考古遺跡(マダイン・サレハ)

(文)サウジアラビア 2008年

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)

場所

サウジアラビア北西部

歴史

紀元前1~後1世紀頃にかけて栄えた遊牧民族ナバテア(ナバタイ)人が築いた古代遺跡

※「隊商都市ペトラ」でもナバテア人が出たのでチェック。

アル・ヒジルの考古遺跡の特徴

ヨルダンのペトラ遺跡より南にあり、現存するナバテア文明の遺跡では最も大きく、預言者サレハの名から「マダイン・サレハ(サレハの街)」と呼ばれている。

「アル・ヒジル」は「岩の多い場所」を意味し、イスラム教の聖典「クルアーン」では呪われた場所とされている。

4つの大規模な墓地があり、装飾された49基の墓石群が良好な状態で残る。

ナバテア文明以前の洞窟画や碑文も発見されている。

■隊商都市ペトラと密接。ナバテア人はここでも出てくる。岩の遺跡ですね。

Wikipedia→アル・ヒジルの考古遺跡(マダイン・サレハ)

◯ピュー族の古代都市群

(文)ミャンマー 2014年

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)(Ⅳ)

場所

ミャンマーのイラワジ川流域の乾燥した盆地にある。

歴史

紀元前200年から900年の1000年以上にかけて繁栄したピュー族の王国群を今に伝えている。

紀元前2世紀にインド文化と共に仏教が東南アジアに伝来。支配層から労働者まで、すべての階級に浸透し、社会、文化、経済に影響を与えたことも証明している。

ピュー族の古代都市群の特徴

レンガで造られた3つの都市の遺構からなり、多くは未発掘である。

3つの都市遺跡はハリン、ベイッタノシュリ・クシェートラ

遺跡には城塞や埋葬地跡、生産地跡などのほか、レンガ造りの仏教のストゥーバや、一部残る城壁、水利システムなどが含まれている。

水利システムは組織化された集約農業を支えたもので現在も使用されている。

■ミャンマーのピュー族の3つの遺跡。ハリン、ベイッタノ、シュリ・クシェートラはセットで覚えておきたい。

Wikipedia→ピュー族の古代都市群

◯バンチェンの考古遺跡

(文)タイ 1992年

登録基準(Ⅲ)

場所

タイ北東部 コラート高原の一帯にある。

歴史

紀元前3600年頃~紀元後3世紀にかけての集落跡とされる。

農耕文明の跡がうかがえ、世界史上でも比較的早期に稲作が行われていたことがわかっている。

バンチェンの考古遺跡の特徴

陶器や青銅器を使用した跡も見られ、1966年に紐で模様をつけた彩文土器が発見されたことで発掘が本格化。

土器や青銅器、ガラス玉などが発掘されている。

■タイのバンチェン稲作始まる。彩文土器も出たよ、で覚えたい。リズムで覚えたい。

Wikipedia→バンチェンの考古遺跡

◯殷墟

(文)中国 2006年

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)(Ⅳ)(Ⅵ)

場所

北京の南方、安陽市にある。

歴史

中国で最も古い王朝とされている殷王朝後期の最後の首都。

紀元前1300年頃~前1046年まで栄えた。

殷墟の特徴

中国最古の古代都市遺跡の1つ。

数々の遺物が発見されており、神託の結果などを刻んだ甲骨文字や、太陽暦や太陰暦を組み合わせた暦法から、科学的・技術的レベルが高かったことがうかがえる。

当時の王族の墳墓には珍しく完全な形で残っている王妃の墓や、皇族陵墓、宮殿の遺跡などが発掘されている。

殷王朝の遺跡。青銅器時代の繁栄を伝える中国最古の都市遺跡。甲骨文字や暦法などの文化、文明の発展がみられる。

Wikipedia→殷墟

◯サラズム:原始都市遺跡

(文)タジキスタン 2010年

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)

場所

トルクメニスタン 中央アジアのステップ地帯の間。

歴史

紀元前4000年から紀元前3000年代末にかけての中央アジアにおける人類定住の歴史を物語る考古遺跡。

サラズムの特徴

サラズムは「地の始まるところ」を意味する言葉。

農業や牧畜のほか、銅やスズなどの金属鉱業やその加工業によって街が成立し、都市形成の発展過程も知ることができる。

サラズムは中央アジアの遺跡の中でも人間が定住した地としても最も古い部類に入る。

遊牧民による家畜の放牧に適した山岳地帯と、定住者による農業と灌漑に好都合な渓谷に挟まれた場所に位置する。

サラズムはトルクメニスタン、イラン高原、インダス川からインド洋までの渓谷部といった中央アジアのステップ地帯の間で、物資の移動と文化交流、職業的な結び付きが存在したことを明らかにしている。

人類の定住生活の発展を示す遺跡。遊牧と定住の内容、そしてステップ地帯にあることなども。

Wikipedia→サラズム:原始都市遺跡

◯マサダ国立公園

(文)イスラエル 2001年

登録基準(Ⅲ)(Ⅳ)(Ⅵ)

場所

イスラエルの死海西岸

歴史

紀元前1世紀 ユダヤ王国のヘロデ王が築いた。

ヘロデ王は大規模な建築を好み規模を拡大させたが、この宮殿に住むことなく紀元前4年に死去。

ユダヤ王国はローマの属州になり、マサダにもローマ軍が駐留する。

紀元66年 ローマ帝国に対しユダヤ人が反乱(ユダヤ戦争)を起こし、熱心党(ゼロテ派)と呼ばれた政治宗教集団がマサダを奪還。

70年にローマ軍の激しい攻撃を受けエルサレムが陥落。

その後多くのユダヤ人が集まり籠城。1000人のユダヤ人が抵抗を続けた。

73年にマサダは陥落し、反乱軍の960人がローマ軍の捕虜になるのを拒み集団自決を遂げた。

マサダ国立公園の特徴

ヘロデ王が築いた断崖上にある離宮兼要塞跡の一帯。

マサダ陥落をきっかけにユダヤ人のディアスポラ(離散)がはじまった。

■マサダの歴史はユダヤ人の歴史。ディアスポラのきっかけ、ヘロデ王熱心党もポイント。

Wikipedia→マサダ国立公園

◯ユダヤ低地にあるマレシャとベト・グヴリンの洞窟群:洞窟の大地の小宇宙

(文)イスラエル 2014年

登録基準(Ⅴ)

場所

イスラエル ユダヤ低地にあるマレシャとベト・グヴリン。

メソポタミアからエジプトへと続く交易路の交差点に位置する。

歴史

紀元前8世紀 マレシャが造られその後ベト・グヴリンが造られる。

紀元前8世紀から十字軍の時代まで2,000年以上にわたるこの地域の文化と発展の歴史を証明している。

マレシャは紀元前40年にパルティア人によって破壊されて以降は再建されなかった。

ベト・グヴリンはユダヤ戦争でローマ軍に占領された後、バル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)で大きな被害を受けたが、2世紀にローマの植民市として再建された。

マレシャとベト・グヴリンの洞窟群の特徴

ユダヤ低地の柔らかい石灰岩層に築かれた3,500もの地下室が洞窟群の空間に存在している。

地下に掘られた洞窟群は、貯水槽や搾油機、浴槽、遺骨安置所、厩舎、信仰や礼拝の場、隠れ場所、都市の郊外にある埋葬場所などを含んでいた。

■ユダヤ低地は柔らかい石灰岩層なのでたくさんの洞窟群ができたことを連想していく。

Wikipedia→ユダヤ低地にあるマレシャとベト・グヴリンの洞窟群(洞窟の大地の小宇宙)

◯カルアトル・バーレーン:古代の港とディルムンの都

(文)バーレーン 2005年/2008年2014年範囲変更

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)(Ⅳ)

場所

バーレーン北部のカルアトル・バーレーン。

歴史

エジプト文明にも劣らない文明だったとされるディルムン文明の中心地の遺構。

※霊廟と墳墓のところでも取り上げた「ディルムンの墳墓群」も関連。

紀元前26世紀頃~紀元前8世紀初頭まで続いたとされ、紀元前24~後16世紀にわたり新たな建造物が積み重ねられてきたテル(集落)

カルアトル・バーレーンの特徴

現在まで発掘されているのは全体の25%。

宮殿群や軍事施設、邸宅の遺構や、一時この地域を支配していたポルトガルの城塞跡などが発見されている。

かつたこの地は港湾都市として栄え、多様な文化が交差していたと考えられている。

■古代ディルムン文明の中心地。メソポタミア文明とインダス文明を結ぶ交易の要衝。「ディルムンの墳墓群」と関連して覚える。

Wikipedia→カルアトル・バーレーン:古代の港とディルムンの都

おわりに

「古代文明②」については、聞きなれない遺産名やキーワードを繋げて覚えるようにしていく。古代文明がテーマなのでその文明の特徴は抑えておく。

世界遺産検定の他にも色々なジャンルの記事を書いてますので気になるジャンルがありましたら読んでいただけると幸いです。

これからも生活の役に立つ記事、楽しい記事を少しずつ書いていきたいと思います!

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