【世界遺産】15日本の文化遺産⑤(法隆寺地域/紀伊山地)

こんばんは、みや兄です!12月12日までは世界遺産検定1級合格に向けての勉強シリーズです。

公式テキストである「すべてがわかる世界遺産大事典(上)(下)」を中心に自分の苦手ポイントメモなどを加えていきたいと思います。

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今日は第15回目ということで「15日本の文化遺産⑤(法隆寺地域/紀伊山地)」です

■15日本の文化遺産⑤(法隆寺地域/紀伊山地)

◯法隆寺地域の仏教建造物

(文)日本(奈良) 1993年

登録基準(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅳ)(Ⅵ)

登録基準(Ⅰ)

法隆寺と法起寺に残る木造建築物群はエンタシスの柱、雲形の肘木や斗などの装飾も優れ、芸術的価値が高い。

登録基準(Ⅱ)

法隆寺地域の仏教建造物は仏教建造物の最古の例。それぞれの時代の寺院の発展に影響を及ぼした。

登録基準(Ⅳ)

7世紀~8世紀にかけて築かれた建造物は、石窟寺院や絵画的資料から6世紀以前の中国建築と共通する様式が見られる。

8世紀に築かれた建造物は唐の様式が見られる。

つまり中国と日本、東アジアには密接な建築上の文化交流があった。

登録基準(Ⅵ)

仏教が日本に伝来したのは6世紀半ば。聖徳太子ゆかりの法隆寺は日本の仏教の最も古い時代の建造物を多数保存しており、宗教史の観点からも高い価値がある。

遺産価値総論

法隆寺の47棟と法起寺の三重塔1棟の48棟で構成されている。

8世紀以前に建造された11棟の建物は現存する世界最古の木造建築である。

聖徳太子ゆかりのこの地域は仏教の布教もあり、1300年において日本の仏教建築の発展に多大な影響を及ぼし続けた。

7世紀から8世紀に造られたものは、北魏や唐といった各時代の中国で発展した建築様式が見られ、中国大陸と日本の間での技術や文化交流がうかがえる。

西院や五重塔などの一部の柱はエンタシスの技法が取り入れられている。

歴史

607年に推古天皇と聖徳太子によって若草伽藍(斑鳩寺)が築かれた。

670年に斑鳩寺は焼失、遺構は現在も法隆寺境内の地下部分に残る。

7世紀後半から8世紀に若草伽藍から場所を移し再建されたのが現在の法隆寺西院と考えられている。

739年に聖徳太子の霊を祀るために建設した伽藍(上宮王院)が法隆寺東院の起源とされている。

法起寺は聖徳太子の死後、山背大兄王が聖徳太子の宮であった岡本宮跡に建立した寺を起源とする。当時の姿を残すのは24mの三重塔のみ。

12世紀頃には「聖徳太子信仰」が一般の人々にも広まる。

明治維新後は次第に荒廃するが、文化財保護のために1897年に「古社寺保存法」が制定された。

歴史保存上の課題

世界遺産の中で石の文化は建設当時のものが残っており重視されていた。木や土の文化は真正性が認められにくかった。

→木の文化における保存・修復の歴史を説明し、それが「奈良会議」に繋がった。

構成資産の概要

法隆寺西院伽藍

東に金堂、西に五重塔。

西院の伽藍配置は「法隆寺式伽藍配置」と呼ばれる。

西院の構造や意匠、金堂内部の釈迦三尊像のアルカイックスマイルなどは北魏の文化が見られる。

金堂や五重塔は「雲型組物」が用いられ、このような装飾は古代中国の建築とも共通する。

法隆寺中門は通路となる柱の中央部に柱を置く「四間門」。中門の左右には阿形と吽形の2体の金剛力士像がある。

法隆寺東院伽藍

8世紀前半に建設される。

周囲に回廊が巡る「夢殿」を本道とする。これは現存する最古の八角円堂。屋根は「八注造」という様式。

夢殿の本尊は救世観音菩薩像で聖徳太子と等身と伝えられている。

法起寺

法隆寺の北東約1.5km。三重塔は境内に唯一現存する創建当時の建造物 。三重塔としては日本最古かつ最大規模のもの。着工が法隆寺の方が前だったので世界最古の木造建築は法隆寺の五重塔だったとされている。

■構成資産は法隆寺と法起寺のみ。合計48資産で、内1棟だけ法起寺の三重塔。伽藍配置はQuizKnockで覚えました。

Wikipedia→法隆寺地域の仏教建造物

◯紀伊山地の霊場と参詣道

(文)日本(和歌山/奈良/三重) 2004年/2016年範囲拡大 文化的景観

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)(Ⅳ)(Ⅵ)

登録基準(Ⅱ)

「高野山」は空海によって創建され、多くの仏教建築が残されている。

「吉野・大峯」と「熊野三山」は日本古来の自然崇拝と仏教が融合して形成された「神仏習合」の宗教観に基づいて築かれた仏教寺院建築群と独特の神社建築が残る。

周囲の山岳景観とともに霊場における顕著な文化的景観を形成。霊場形成のモデルとなり、東アジアにおける宗教文化の交流と発展の結果生まれた例である。

登録基準(Ⅲ)

各寺社の境内や参詣道は考古学的文化財が多く残されている。今も参詣者による宗教儀礼が行われるなど宗教文化の重要な継承の場となっている。

登録基準(Ⅳ)

紀伊山地に残る仏教建築や「熊野三山」などの神社建築は木像宗教建築の代表例。

近世以降、徳川幕府の諸大名によって高野山奥院に多数の石塔婆が築かれる。これらは日本独自の石造廟様式の変遷を示す顕著な例である。

登録基準(Ⅵ)

建造物や遺跡は、神道と仏教、そしてその融合の過程で生み出された「修験道」など、日本独自の信仰形態を表す顕著な例。

山岳地帯に残る修行場や神聖性が高い自然物は信仰に関する独自の文化的景観を形成。

遺産の概要

3つの霊場とそれぞれを結ぶ参詣道によって構成。

3つの霊場は「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」

参詣道は「伊勢路」「大辺路」「中辺路」「小辺路」「紀伊路」「大峯奥駈道」「高野山詣道」

豊かな雨が育む緑深い森林景観。「神の宿る場所」として古くから神格化され、自然信仰を育む土壌となっていた。

中国大陸から仏教や道教が伝来、紀伊山地は「神仏習合」をはじめ「浄土教」「修験道」など様々な信仰の聖地とされた。

紀伊山地は3つの霊場とそこに至る「参詣道」が整備され、多くの参詣者がこの地を訪れることとなる。

自然環境を中心に数多くの信仰形態がうまれ、今なお共存していることから日本ではじめて文化的景観が認められた

歴史

7世紀後半 仏教が広まると紀伊山地では山岳修行が行われるようになった。

816年 空海が金剛峯寺を建立。紀伊山地は真言密教の修行場に。

9世紀から10世紀 「神仏習合」の思想が広まり紀伊山地は聖地として注目、「熊野三山」を中心に建造物の建立が進む。

→中国からの道教の神仙思想と日本の山岳信仰が融合、独自の宗教である「修験道」が成立。中心であった吉野・大峯では修験者が集まるように。

11世紀 「浄土宗」が流行。死後の成仏を願う皇族、貴族、有力武士による多くの寺社建立。上皇をはじめとする多くの皇族や有力貴族が参拝に訪れ各霊場や参拝道が整備される。

14世紀 南北朝時代に吉野山に南朝の拠点が置かれたため、北朝から侵攻された多くの寺社が被害を受けた。

明治維新後 1868年「神仏分離令」1872年「修験道廃止令」が制定され厳しい状況に直面するも、1898年「古社寺保存法」が成立し、多くの文化財や宗教文化が守られた。

保存上の課題

台風、大雨などの自然災害や、参詣道沿いのバッファー・ゾーンの範囲外の住宅の建て替えや開発による景観の悪化などが指摘されている。

構成資産の概要

吉野・大峯

紀伊山地最北部の霊場。金峯山を中心とする「吉野」と、その南に連なる修験道の修行の場である「大峯」で構成。

吉野山の麓の金峰山寺、山上ヶ岳の頂上の大峰山寺。桜の名所の吉野山、分水嶺信仰の吉野水分神社、後醍醐天皇の行在所だった吉水神社など。

熊野三山

紀伊山地南東に点在する「熊野本宮神社」「熊野速玉神社」「熊野那智神社」の総称。

10世紀に神仏習合の広まりから互いの主祭神を合祀し「熊野三所権現」として信仰を集める。

他に青岸渡寺、補陀洛山寺、那智大滝、那智原始林など。

高野山

金剛峯寺を中心とする「真言密教」の霊場。建造物群は標高800mの山上にある約3k㎡の平地に立っており「八葉の峰」とも呼ばれる。

高野山は女人禁制、女性は麓の慈尊院を詣でた。他には丹生都比売神社など。

参詣道

「大峯奥駈道」「熊野参詣道」「高野山詣道」の3つの参詣道。詳しくはテキストP085の図を見ると色分けされてて見易い

■3つの霊場の特徴と参詣道についてと、神仏習合と修験道あたりがキーワード。日本ではじめて文化的景観が認められたところもポイント。

Wikipedia→紀伊山地の霊場と参詣道

おわりに

「法隆寺地域/紀伊山地」について、法隆寺は個人的に超苦手な伽藍配置について覚えたい。紀伊山地は歴史で習ったことが多いので日本ではじめての文化的景観と構成資産の細かいところを抑えておきたい。

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