【世界遺産】17時間目 日本の文化遺産⑦(石見銀山/原爆ドーム)

こんばんは、世界遺産検定マイスターのみや兄です!世界遺産検定1級合格に向けての勉強シリーズです。

公式テキストである「すべてがわかる世界遺産大事典(上)(下)」を中心に自分の苦手ポイントメモなどを加えていきたいと思います。

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今日は17時間目ということで「17日本の文化遺産⑦(石見銀山/原爆ドーム) 」です

■17日本の文化遺産⑦(石見銀山/原爆ドーム)

◯石見銀山遺跡とその文化的景観

(文)日本(島根) 2007年/2010年範囲変更

登録基準(Ⅱ)(Ⅲ)(Ⅴ)

登録基準(Ⅱ)

16~17世紀初頭の大航海時代、石見銀山における銀の生産は、アジアやヨーロッパの国との貿易上、重要な商業的・文化的交流を産み出した。

登録基準(Ⅲ)

金属採掘と生産における技術的発展、進化。採掘から精錬まで一連の技術全体を包括するに至った。鎖国政策で技術導入を遅らせたが、その後鉱山活動が停止されたあとに考古学的遺跡が良好な形で残されることになった。

登録基準(Ⅴ)

鉱山の遺跡、街道、港など、採掘から精錬、搬出までの鉱山経営全体に関わる豊富な遺構の大部分が山林の景観に覆われている。その結果「文化的景観」が認められた。

遺産価値総論

「銀鉱山跡と鉱山街」「街道」「港と港街」の3つの分野にわたる14の構成資産。

「銀鉱山跡と鉱山街」=銀鉱山の採掘から精錬まで行っていた銀山柵内や清水谷精錬所跡などの鉱山跡、600もの小規模な手堀りの坑道「間歩」や、鉱山街や周囲の石見城跡などで構成。

「街道」=銀鉱山と港の間に整備。銀鉱山や銀の搬出をはじめ、物資の輸送路となっていた石見銀山街道など2本の運搬路。

「港と港街」=銀鉱山や銀の積み出しなどを行っていた鞆ヶ浦港と沖泊港の2つの港とその関連施設、港の仕事に関わる人々が暮らした温泉津などの温泉街。

「その他」=これら遺構の周囲には銀生産や住民の生活に使用された薪炭材の供給源であった森林をはじめ豊かな自然景観も残る。このような景観が良好に残っていたため文化的景観が認められた。

歴史

1526年に石見銀山が発見されると、博多の豪商 神屋寿禎により開発が進められた。

産出した銀鉱石は鞆ヶ浦港から博多に送っていたため鞆ヶ浦には人が集まり集落に発展。

1533年に朝鮮から伝来した灰吹法という技術で生産量が増大。その後も銀精錬技術は発展していく。

関ヶ原の戦い後、石見銀山は徳川幕府の支配下に。鉱山経営を、奉行として派遣された大久保長安が行う。

銀山経営の新拠点として大森地区の整備を進め、銀山経営の一部を「山師」と呼ばれる民間の業者に委ねるなどの改革を行った。

1620~40年代には年間約40tもの銀が生産されたが、産出量は減少していき明治維新後の1869年に個人業者へ払い下げられ1923年に休山した。

保存上の課題

ICOMOSは登録基準(Ⅴ)についての調査や文書提出を求めた。街道の史跡追加、大森地区の景観についての保全体制を整え、2010年に登録範囲が軽微に拡大する。

構成資産の概要

銀山柵内

銀鉱石の採掘から運鉱・製錬・精錬までの工程が行われた銀鉱山跡。

龍源寺間歩、清水谷精錬所跡、石銀遺跡、清水寺、唐人屋敷跡などが残る。

大森・銀山

鉱山に隣接する谷間に発展した鉱山街。伝統的な木造建築が立ち並ぶ集落が展開。

「銀山地区」南側の要害山に近くの地区。

「大森地区」北側の代官所跡の近く。

大森地区の北東側には江戸幕府の役人が常駐した「代官所跡」がある。

鞆ヶ浦

博多に向けて銀鉱石や銀を積み出していた入り江に築かれた港。

湾の開口部には波避けの2つの小島があり、そのうちの一つは石見銀山を開発した神屋寿禎が建立した、弁天を祀る神社が立つ。

沖泊・温泉津

「沖泊」狭い入り江を利用して築かれた港。精錬した銀の積み出しや石見銀山への物資の補給を担った。

「温泉津」沖泊に隣接する温泉街と港。16世紀に日本海側最大の港として賑わった。木造建築なども残る。

石見銀山街道温泉津・沖泊道

銀の搬出と物資の搬入のために整備された街道。途中にある西田集落を中継地に、鉱山と温泉津、沖泊を結ぶ全長12kmの道。

現在は石段や側溝、街道の整備の際に石材が切り出された石切場の跡が残る。

■遺産となっている範囲やその歴史、地区ごとのキーワードを抑える。単語を覚えたらテキストP97の登録範囲図と照らし合わせるよりわかりやすくなる。

※石見銀山が世界遺産になるまでをわかりやすく描いているのが、「うちのトコでは」という漫画の3巻にあります。これは読みやすくてオススメです。都道府県とか好きな人は「うちトコ」読んでみるとハマると思います!

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Wikipedia→石見銀山遺跡とその文化的景観

◯原爆ドーム

(文)日本(広島) 1996年 負の遺産

登録基準(Ⅵ)

登録基準(Ⅵ)

時代を越えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴える人類共通の平和記念碑。

登録基準(Ⅵ)のみで登録された負の遺産。

遺産価値総論

原爆の被害を当時のままに伝える建造物。一部鉄筋を用いた地上3階建てレンガ造り。中央にはドームのある5階建ての階段室を備えていた。

「ネオ・バロック」の影響が確認できる楕円形のドーム、湾客した壁面、19世紀に起こった芸術運動であるウィーン分離派のゼツェッション様式による柱頭や正方形の窓枠、幾何学模様を配置した装飾など様々な建築様式が融合した姿があった。

爆心地の北西約150mの至近距離で被爆。爆風と熱線で全壊・全焼した。建物の屋根や床はすべて破壊、壁は建物の大部分において1階の上端以上が倒壊。

衝撃波をほぼ真上で受けたため建物の中心部分は倒壊を免れ、外壁と鉄骨の骨組みが残る。建物南側の洋式庭園の噴水も破壊された遺構として残る。

ICOMOSの報告書「歴史的価値や建造物としての価値は認められないが、世界平和を目指す活動の記念碑として、世界でもほかに例を見ない建造物である。」との技術があり、登録基準(Ⅵ)のみで登録された。

歴史

1910年 広島県物産陳列館の建設を決定。設計はチェコ出身のヤン・レツル。クイズでよく出るヤン・レツル。

1915年 完成後「広島県産業奨励館」と改称された。

1945年8月6日 アメリカのB29「エノラ・ゲイ」が原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下。広島県産業奨励館の南東約150m、上空約580mで炸裂した。

爆心地近くに残された旧広島県産業奨励館の廃墟は屋根部分の円蓋鉄骨の形から「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。

広島市民の間でも解体すべきか保存すべきか議論が繰り返された。風化や経年劣化による崩壊の危険性も考え、取り壊しも検討していたが、保存を願う市民運動の高まりから1966年の広島市議会で原爆ドームの永久保存を決議した。

保全のための募金運動が行われ、1967年に最初の保存工事が実施され、1989年と2002年にも実施されている。

1992年 広島市長が世界遺産リストに記載すべくユネスコへの推薦を国に求めた。

1993年 市民が「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を発足

1995年 文化財保護法の史跡指定基準が改正

1996年 世界遺産登録を果たした。

(テキストP102に詳細と流れが書いてあるのでチェックしておく、年号も抑えたい)

保存上の課題

①破壊された当時の状態にいかに保つかという点。

→むき出しの鉄骨や壁のひびなどを風雨や地震から守る工夫が求められている。

②『広島平和記念碑(原爆ドーム)』の景観をいかに守るかという点。

→バッファー・ゾーンでの高層マンション建設や際開発計画などが問題になっている。

世界遺産登録時の状況

1996年 第20回世界遺産委員会で登録の可否が審議された際に、世界遺産委員会委員国のアメリカと中国は、世界遺産リストへの決議に反対はしないものの、審議後に声明を出した。

※アメリカと中国の声明についてはテキストP103に記載があるので読みましょう、めっちゃ読みましょう。

負の遺産としての意義とその歴史を覚えるのが大切。他の遺産もそうですが世界遺産登録までの歴史は大切ですね。

Wikipedia→原爆ドーム

おわりに

「石見銀山/原爆ドーム 」について、石見銀山はそれぞれの地名と役割をしっかり覚える。原爆ドームはその歴史を覚えていくことが大切だと思います。

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